式内社(名神大社)の後継社で、旧社格は国弊中社。現在は神社本庁の別表神社です!!
忌部氏の神話・伝承をまとめた『古語拾遺』や平安時代の法令書『延喜式』などによると・・・
天皇即位儀礼である「大嘗祭(だいじょうさい)」に際して「麁服(あらたえ)」「という布を調進します♪
「忌部神社」は『延喜式』神名帳に登載された、いわやる式内社でその中でも阿波に三社あった大社のひとつでした!!
そういった位置づけからすれば、阿波国ではとくに重要な神社だったはずですが・・・時代が降るうちに所在が分からなくなり・・・複数の神社が古代以来の忌部神社の系譜を出張するように・・・
近世末から近代にかれて活躍した国学者の小杉榲邨(1834~1910)でした。
その考証により、1874年(明治7)麻植郡山崎村(吉野川市山川町)の忌部神社が式内社の系譜をを引くものと判断されます♪
これに対し、美馬郡西端山(つるぎ町貞光)の「五所神社」を古代の式内社である「忌部神社」に比定する見解が出され激しい争いとなりました。
本来、麻植郡にあった「忌部神社」の系譜を美馬郡内に見出そうとすることは奇妙ですが・・・
すでに『阿陽紀』など、近世に民間で流布した地誌では「忌部神社」がある地域はもとは麻植郡で・・・後に美馬郡になったとされ・・・美馬郡にある阿波忌部の伝承などが挙げられています♪
そして小杉の考証は却下され1881年(明治14)、五所神社が「忌部神社」に決定されました!!
所在比定が難航したことから、1885年(明治18)には現在地に社地が求められ1887年(明治20)に遷座祭を行って國弊中社「忌部神社」が新設されることに・・・