今日は仕事で徳島県西部の三好市池田町まで行きました♪
高越山から種穂山の山稜を越え、「麻植」から「美馬」へ‼︎
吉野川市への帰り道、東みよし町の中華料理「菊花楼」で昼食をとります♪
「中華ランチ」です٩(^‿^)۶
ごはんの上に、揚げ麺、たっぷりの野菜あん、焼豚にシューマイがのっています(o^^o)♪
とっても美味しいです٩(^‿^)۶
金丸八幡神社の「磐境」が、その後どうなっているか、見に行って来ました‼︎
歩道の整備が行われた時、物置が撤去され、建物の脇にあった低い「磐境」が退けられ、舗装されて駐車スペースになっていたのです。
東みよし町役場のHPの意見箱にメールをしたところ、前向きに対処しますといった内容の返事がありました。
「磐境」の説明板を設置したらどうですか?と提案させていただきました。
おっ‼︎説明板がある(o^^o)♪
しかし、その内容を読んでみると…
金丸八幡神社の磐境
【説明1】
この列石は霊域を標榜したもので一種の磐境であるといわれていた。
ところが、西宮市の田岡香逸氏の再度の調査によって「この列石は玉垣の代用として作られたもので、近世に入ってから建立・・・・」
神籬石などではなく、結界石の範囲に属せしめるべきである・・・・・」
【説明2】
中庄の八幡神社をとり囲む立石を磐境、神籠石または結界石・玉垣石ともいわれて7いる。
この八幡神社のような立石は、全国でも例がないといわれている。
東西約114m、南北65m、いずれも結晶片岩で幅1.5~2m、厚さ0.3m、地上1.2~1.5m、地下約1.5m埋まっている。
総数387個、なお付近には相当埋まっているようだ。
明治に入って、畑作の邪魔になるこの石をのけようとした人々があったが、いずれも腹が痛んだり、怪我をしたりするので、未だに誰も石にさわろうとはしない。
ある時、盗人が神体を桶に入れて盗もうとしたら、神殿の階段で立往生したそうだ。
毎年この神社の祭にミコシをかつぐと、その1年風邪をひかないともいわれている。
(三加茂町史より)
【説明3】
国鉄徳島本線三加茂駅に接する八幡神社の境域をめぐり、二重に板石を建てめぐらせていることは古くから知られ、かつて、これを古代の神籠石というような古いものではなく、境域を限り、神域を郭する。
二重の列石に過ぎないことを確めた。
近年、この種の遺構を注目するようになり、施設は精粗さまざまであるが、これを結果石と名づけ、その範疇に属せしめることにし、若干資料を紹介した一文をまとめ”歴史考古”(日本歴史考古学会発行)に投稿しているので、近刊の同誌に掲載される予定である。
こんな機会であったから、最後に神社を訪れ、田中猪之助氏の案内で、列石を改めて見たが、やはり、いわゆるではなく、わたくしのいう結界石の範疇に属せしめるべきものであることを再確認したので、いちおう所見をのべて参考に供しよう。
ここで、まずの定義を明らかにしておかなければならない。
が最初に学問の対象として取り上げられたのは、肥後久留米市の高良山である。
山頂から中腹をめぐって麓に達する切り石は背ほ揃えて隙間なく建ち並び、麓の入口に門跡の遺構がある。
つまり、山頂を神座とする聖地説にもとづき、と名づけたのである。
その後、同式の遺構が北九州の各地へかけて(周防でも)発見せられ朝鮮における山城との比較検討から、だいたいにおいて、古墳時代末期の山城節が唱えられるようになったのである。
つまり、祭祀遺構として名づけたであったが実は軍事遺構だったのである。
それにもかかわらず、なおと呼んでいるに問題があり、定義を明らかにする必要が、研究の前提条件になるとわたくしがたびたびの機会に強調しているゆえんである。
さて、をこのように定義すると、八幡神社の列石が、それに該当するといえるだろうか。
これをと名づけたのは聖地をめぐる表識としての本義からであろう。
果たして然らば、この列石が神籬石と呼ばれるにふさわしい古代の遺構といえるということが次の課題であろう。
まだ続きます・・・