5月5日~6日と、一泊二日で行った出雲の旅も、この「荒神谷遺跡」でラストとなります♪
史跡公園として整備されていました!!
「荒神谷史跡公園」は、とっても広い施設でした♪
ただ、時間がなく「荒神谷遺跡」を見てすぐ帰路につきました。
国指定史跡「荒神谷(こうじんだに)遺跡」 島根県簸川郡氷川町神庭
この史跡は、昭和59年(1984年)農道予定地の発掘調査で、全国最多の銅剣358本が出土、翌年に隣接地で銅矛16本、銅鐸6個が出土し、日本古代史上最大の発見として大きな脚光を浴びた遺跡である。
これら弥生時代の青銅器群が埋納されていたのは、仏経山(「出雲国風土記」記載の神名火山)から延びる山間の小さな谷斜面で、現在は発見当時の状況が再現されている。
出土した銅剣はすべて「出雲型銅剣」ともいわれる中細形C類とされるもので、全長50~70cmあり、あち344本には基部にX印が刻まれている。
同型式の銅剣は山陰地方でこれまでに3ヶ所11本が出土しており、地元産とする説が強く、この地方の弥生時代を考えるうえで、鍵を握る青銅器である。
銅鐸は高さ約22~24cmの小型品6個で、古い型式である。
銅矛は長さ70~84cmで、刃部を綾杉文に研ぎ分けた例があり、北部九州産と考えられる。
青銅器が埋納された時期は、弥生時代中期後半から、後期はじめと考えられており、いわゆる邪馬台国が登場する前にあたる。
この時期、ここに多種類の弥生青銅器が大量にかつ一括して埋葬されたということは他に例がなく、出雲地域に近畿地方や北部九州と同じほどの勢力が存在したということを説明するものである。
また、学術調査で青銅器の埋められた様子が確かめられた豊富な例でもある。
出土青銅器は国宝に指定されている。
昭和62年(1987年)1月8日指定。
銅鐸・銅矛発掘再現 1985年の状況
左の銅剣が見つかった翌年、銅鐸6個と銅矛16本が1つの穴の中に埋められた状況で発掘出来ました。
銅鐸の中に棒をつるして鳴らします。
弥生時代の農村では、その音が鳴って祭りが進行したのでしょう。
ここで発見された銅鐸は、細かくみると、文様や形などに他にない独特の特徴をもつものも含まれています。
銅矛は、もともとは柄をつけて槍のように使った武器ですが、ここにあるものは幅も広く、大きくなり、柄を差しこむ根元の穴に鋳型の土が詰ったままで、柄を差しこむこともできません。
刃の部分に光をうける独特の反射をする研ぎ方をしたものもあります。
悪を倒す威力をもった祭りの道具だったのでしょう。
銅矛は北部九州を中心に、中・四国からも出土し、銅鐸は近畿地方を中心に東西に広がっています。
この2種類が一緒に見つかったのは、ここ荒神谷遺跡だけです。